Victimae Paschali laudes《過越の犠牲をほめたたえよ(われらのすぎこし)》


Victimae paschali laudes
過越(すぎこし)の犠牲(いけにえ)をほめたたえよ、*1
immolent Christiani
ほふられたキリストを。
Agnus redemit oves:
子羊が羊を贖われた。*2
Christus innocens Patri
キリスト、無原罪の父は
reconciliavit peccatores.
罪人を悔い改めさせてくださる。
Mors et vita duello
死と生は相争い、
conflixere mirando:
驚くべき戦いをおこなった。
dux vitae mortuus,
死せる人が、
regnat vivus.
生命を支配した。
Dic nobis Maria
わたしたちに語れ、マリア、*3
quid vidisti in via?
道で何を見たのかを。
Sepulcrum Christi viventis,
「葬られたキリストが生きておられるのを、
et gloriam vidi resurgentis:
そしてそのよみがえりの栄光とを見ました。
Angelicos testes,
天使の証と、
sudarium, et vestes.
残された布を見ました。
surrexit Christus spes mea:
目覚められたキリスト、わたしの望みは、
praecedet suos in Galilaeam
ガリラヤに先行き待っておられます。」
Scimus Christum surrexissae
キリストはよみがえられた、
amortuis vere:
死のうちからまことに。
tu nobis, victor Rex, miserere.
勝利の王よ、わたしたちに憐れみを。
Amen. Alleluia.
アーメン、アレルヤ。

*1 イースターの原型となったユダヤ教の行事「過越の祭」。旧約聖書『出エジプト記』で、神がエジプトに災害をもたらした際、ユダヤ人の家を「過ぎ越」したことを記念する。神への目印のために子羊を屠殺してその血をドアに塗り、肉は焼いて食べる。この犠牲の子羊はイエスの象徴でもある。
*2 神と人の関係は、しばしば善良な羊飼いと羊の群れに例えられる。「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」(イザヤ書53:6)。
*3 マグダラのマリア。各福音書ではイエスに七つの悪霊を追い出してもらった女性として言及され、伝統では「罪深い女」「ラザロとマルタの姉妹マリア」などと同一人物であるとされる。彼女の罪とは、娼婦あるいは姦通の類いとみなされている。娼婦を始めとする罪に苦しむ女、悔い改める罪人の守護聖人。民衆劇では福音記者ヨハネの元婚約者、異端信仰ではイエスの恋人や妻などとされることもある。

text & tune: Wipo (act c.1020-1040)

マリアは墓の外に立って泣いていた。
泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。
一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。
しかし、それがイエスだとは分からなかった。
イエスは言われた。
「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
マリアは、園丁だと思って言った。
「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。
わたしが、あの方を引き取ります。」
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。
「先生」という意味である。
イエスは言われた。
「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。
わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。
『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
(ヨハネによる福音書 第20章11-18節)

中世に作られた復活日のミサのための曲。作者は神聖ローマ皇帝コンラート二世に仕えた人物。
復活したイエスに一番最初に会うという最高の栄誉を与えられたのは、かつて罪深い女と呼ばれたマグダラのマリアであった。イエスは何故マグダラのマリアを突き放したのか。『ヨハネによる福音書』ではこのエピソードの後、弟子のひとりトマスが釘のあとと脇腹の傷を触って確認しなければ信じないと言い張る。トマスは触れることでやっと信じたが、マリアは見ただけでイエスを信じることができたからこそ、この栄誉にふさわしいとされたわけである。

ティツィアーノ(1488/90-1576)「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」1511-12年
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日本語歌詞:「我らの過ぎ越し」
われらのすぎこし、
主はほふられぬ。
世の罪を負い、
こひつじなる主は
み父にとりなしたもう。
はげしきいくさを
死とたたかいて、
いのちの主は勝ちたもう。
語れ、マリヤ、
汝(な)が見しままを。
「むなしきみ墓と
 生ける主をわれは見たり。
 布のみ残りて
 さかえはみちぬ。
 望みなる主イエス
 ガリラヤにゆきたもう」。
主はげに死に勝ちて
世をすべたもう。
主よ、あわれみたまえや。
アーメン

聖モーリス及びモール修道院ヴネディクト派修道士聖歌隊
収録アルバム: Gregorian Chant


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by CockRobin96 | 2015-04-03 23:01 | Trackback | Comments(0)
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